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10. まだかな橋

まだかな橋よっちゃん先生いる吉又商店のすぐ隣に「まだかな橋跡」という石碑があります。

昔、中波止という陸から離れた波止場があり、そこに渡る木造の橋があった場所です。

商港として盛んだった頃、下津井には大きな色街があり、数多くの女性が働いていました。船が着いたら船頭衆に「まだ上がらんかな」と呼びかけた橋でした。これが「まだかな橋」の由来になります。

船乗りたちがは航海の疲れを港で癒して、次の目的地に向け出港しました。

一方、芸妓衆の暮らしは過酷であったようで、逃亡するか近くの潮の流れの早い場所に身を投げる人も少なくなかったようです。

北前船の衰退とともにいつしか女性たちはいなくなり、今では橋の周囲も埋め立てられ景色が変わりました(高知のはりまや橋を思い起こします)。

今は石碑の隣には倉敷市による「下津井町並み保存地区」の案内板があります。

9. 下津井合戦

最後に紹介するのか下津井合戦です。
これを取り上げるメディアが少ないのものの、「平家物語」に登場する下津井を舞台とする衝突です。

1184年初め頃、下津井に駐留していた平教盛と通盛、教経の父子3人を中心とする軍勢に、源氏に寝返ったばかりの阿波・讃岐の兵が兵船十余艘で攻めてきました。教経が小舟に分乗して迎撃、平家への臣従を攻め手を撃退しました。

これまでに紹介した合戦を有名な源平の戦いの中でまとめたのが下の年表です。
ご参考まで。


<1183年5月>
倶利伽羅峠の戦い 源(木曽)義仲大勝
平家都落ち。義仲方は追撃戦開始

<1183年11月>
水島合戦 源氏大敗 義仲は都の治安も維持できす源氏内で問題に

<1184年1月>
源義仲 源頼朝麾下の範頼、義経と宇治川の戦いで敗走 のち粟津で討死
この頃 源氏方の内紛に乗じ平家が一時的に勢力を盛り返す

<1184年1月頃>
平教盛、通盛、教経3名が下津井に在陣
下津井合戦 阿波・讃岐の小軍勢を撃退

平家が兵庫県福原(一ノ谷)まで回復

<1184年2月>
一ノ谷の戦い 義経参戦 平氏大敗

<1184年秋>
平行盛 下津井で中秋の名月を読む

<1184年12月>
藤戸合戦 佐々木盛綱 馬で渡海 平氏敗北

<1185年2月>
屋島の戦い 平氏敗北 四国の拠点を失う 那須与一の扇の的の舞台

<1185年3月>
壇之浦の戦い 平家滅亡


 

8. 藤戸合戦

下津井のある倉敷市最南部はむかし児島という島でした。源平の争いはこの島の周囲で争われます。

藤戸合戦は下津井の反対側の海で行われた一般にもよく知られた戦いです。
合戦は一ノ谷での源氏大勝の後の1184年12月、源氏が平氏を西へ追撃する中で起こります。

児島側に布陣した平家に対し、海峡を挟み本土側から戦いを挑もうとするも源氏には船がありません。
その距離約500m。

そこで源氏の武将の佐々木盛綱は、あらかじめ地元の若者に聞いた浅瀬をつなぐコースを馬でたどり対岸に上陸、同じ道を追って源氏方が殺到して、平氏側は退散しました。

きっと源氏方の武勇を伝えるエピソードとして語られたことでしょう。

佐々木盛綱は浅瀬のコースをコースを教えた若者を口封じのため殺してしまいます。
その男の恨みを題材に作られたのが謡曲「藤戸」で、こんにち能の舞台でポピュラーな演目になっています。

倉敷市のPR動画にも藤戸合戦が取り上げられています。

7. 船幽霊

船幽霊この水島合戦の舞台である玉島沖では、のちに船幽霊伝説が生まれます。

~お盆の夜、この海域を通ると海の中から「柄杓をくれ~」という声が聞こえる。

言われる通りに柄杓をひとつ投げ込むと、無数の柄杓を持った手が水中から現れ、いっせいに船に水を投げ入れ、ついには船を沈めてしまう~

この海域に散った源氏方の武者の怨霊だと説明されます。

子供の頃は「こわ~」と思ったものです。

日本各地に船幽霊伝説がありますが、この地の話は源平争乱と繋がる代表的ななものではないでしょうか。

現場は北前船の十里港である鞆の浦と下津井のほぼ中間地点。下津井に向かう昔の船乗りは、きっと心してこの海域を通ったことでしょう。

現在は、鉄鉱石や穀物を満載した大型貨物船が通う産業を支える大事な海となっています。

画像:JR児島駅前にある「児島民話通り』より

6. 水島合戦

源平合戦水島古戦場の碑下津井の西となり、臨海工業地帯で有名な水島も源平の争乱の舞台となりました。

源平合戦というと、敗走を続ける平氏、追撃する源氏とのイメージですが、ここで大敗したのは源氏。

1183年5月倶利伽羅峠の戦いで大勝した源(木曽)義仲は京都に入り、平氏主力は一族の血を引く安徳天皇を連れ九州まで逃れます(都落ち)。

これを追撃しようとした源氏が、現在の水島(正確には現在の玉島沖)で、平家と戦ったのが海戦が水島合戦です。両軍合わせ何百隻もの軍船がぶつかり、数、装備とも優れた平氏が勝利。源義清をはじめとする指揮官ら多数が討ち取られました。

源氏方は船を繋ぎ板を渡して水上の陣地のように使ったといいますが、身軽な装備で水上船に慣れた平氏側が水上の白兵戦を制したようです。

源義仲は都の治安維持にも失敗、のちに上洛した源義経に討たれます。この源氏の内紛の隙に平氏は勢いを盛り返し、兵庫県の福原(一ノ谷)まで勢いを回復しましたが、そこで義仲に代わって最前線に出てきた天才武将義経と激突、屋島~壇之浦へと滅亡の道をたどることとなります。

写真:岡山観光Web(公益社団法人 岡山県観光連盟)より

5. 仲秋の名月と歌碑

歌碑
月の美しい季節となりました。
今から800年以上前、下津井田之浦というところで仲秋の名月を詠んだ武将がいました。


もろともに みし世の人は波の上に
面影浮かぶ 月ぞ悲しき

(「玉葉和歌集」巻17)

歌碑


先に討ち死にした一族を偲ぶ歌です。
詠んだのは平行盛といい平清盛の孫にあたる人物です。源平の争乱の中で下津井に陣を敷いたときの歌。

月あかりと波の反射を背景に、故人たちとの思い出がよみがえる情景が浮かびます。

本人もこの後、藤戸から屋島、壇之浦と転戦し、多くの平家武将と運命をともにしてゆきます。この人にとっても人生最後の仲秋の名月になりました。

瀬戸内海沿岸には源平争乱に関係する言い伝えが数多くあります。
下津井のある倉敷市には藤戸合戦、水島合戦(有名な船幽霊伝説の始まりになった)そしてこの歌に先立ち下津井合戦というのもありました。
少しづつご紹介していきます。

*平行盛の歌碑は、現在下津井田之浦にある田土浦(だづちのうら)公園にあります。

4. 雁木(2)

雁木2

小さい頃から雁木が遊び場だったよっちゃん先生から聞きました。

雁木はいうなれば人口の岩場になっていて、中には多くの生き物がいたそうです。

貝や海藻はもちろん、ハゼ類やカニなどが雁木の周辺を生活場所にし、港を潜ればいっぱい会えたそうです。雁木の先は砂底で…。海のきれいな昔の港の光景が目に浮かびます。

今では下津井の水際は埋め立てられ、海岸線が沖に移動してコンクリートの岸壁になりました。しかし昔の雁木は壊されず土砂で埋められただけなので、その気になれば掘り出せるのではとのことです。

将来発掘して、みなと遺構記念館とか作れそうです。

3-雁木(1)

雁木イメージ
雁木とは港に作った石造りの階段状の構造物です。

船が着くと、その時どきの潮のにあう最適な段に足場板を渡して、荷物の上げ下ろしをしていました。板の揺れにリズムをとりながらの作業となります。

この雁木、潮に浸かりがちな下の段は貝や海藻が張り付き足場が悪く、子どもながらドキドキしたものです。

雁木を転げ落ちるものを追いかけた友達が、勢い余って海にボッチャンなんていうこともありました。

沖から帰り足場板にバランスをとりながら雁木に降り立った時、揺れない地面に何ともいえず安心感を覚える、

海辺に育った子どもは誰でもが覚えている瞬間です。

 

昔、といっても私の小さい頃まで(やはり昔か)、せとうちの船着き場にはどこもこの雁木がありました。 特に下津井の水際には、いたるところで長大な雁木が設けられ、港町を象徴する風景となっていました。

今はコンクリートの岸壁と浮桟橋が主流。

時の流れには抗えません。

下津井からも雁木はほとんど姿を消しました。昔ながらの風景を懐かしむ人は数多くおられます。

2. 北前船寄港地 十里港下津井

画像イメージ北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて、大阪と北海道の間を往復した商船です。下関を回って瀬戸内海と日本海を航行していました。

最初は東北や北陸の米を大阪へ運ぶため開発された沿岸航路ですが、次第に取り扱い商品は沿岸各地の特産物に広がり、寄港する港を含む航路全体が活発な商業ベルトとなって、江戸時代の経済を大きく発展させました。

下津井はそんな北前船の寄港地でした。

港には大きな十里港とその途中の五里港があり、下津井は広島県の鞆、兵庫県の室津などと同じ十里港でした。日本各地に北前船寄港地がありますが、下津井は主要な港の一つと言えるかもしれません。

潮待ち・風待ちの港から始まり、新農地開発が進む岡山平野への肥料の荷下ろし地として商業上の重要性も増していったようです。

(北前船はこれから何度もこのページに登場します)

参照元
環境省HP「せとうちネット」
第六管区海上保安本部HP「海の豆知識」
角田直一著「私の備讃瀬戸」
倉敷の自然を守る会編 「児島風土記」
北前船日本遺産推進協議会作成サイト「北前船寄港地・船主集落」

1. 瀬戸内の分水嶺

瀬戸大橋下津井はどこにあるのでしょう。岡山県の海岸線のほぼ中央、緩やかにカーブして海に突き出た下津井半島の西側にあります。

下津井のある瀬戸内海は「備讃瀬戸」(びさんせと)と呼ばれます。むかしの備前・備中の2つの国と讃岐国の間にある瀬戸内海という意味です。実はこの備讃瀬戸、ある意味では広大な瀬戸内海の中心になるのです。

今から約2万年前の氷河時代、海水面はいまから約130m低く、瀬戸内海には広くは陸地でした。瀬戸内の海底は東西のはしに向けに緩やかに傾斜する斜面だったのですが、その東西分かれ目となる分水嶺は現在の備讃瀬戸西部にありました。

このため、今でも満潮の時、豊後水道と紀伊水道からの上げ潮が出会うのは備讃瀬戸になるようです。

下津井はそんな備讃瀬戸でも古来最も賑わった港のひとつで、わたしは「備讃瀬戸の海の首都」と勝手に思い込んでます。